世界中のインターネットユーザーが、毎日のようにフェイクアカウントやスパム、成りすまし、フィッシング被害と向き合っている。「誰が本物なのか」、そして「相手が人間なのか」が証明できないままインターネットは巨大化し、その歪みは社会問題へと広がっている。こうした課題に対し、ボットかどうかを判別するのではなく、実在する一人の人間かどうかを証明するという逆転の発想で取り組むのが「World ID」だ。
この革新的な技術を社会基盤として浸透させようとする取り組みの先に待つ未来とは? 京都大学 プラットフォーム学卓越大学院プログラムでは、Tools for Humanityの日本代表である牧野友衛氏を招き、学生たちへのセミナーを実施。Tools for Humanityは、World IDをはじめとする「World」プロジェクトのツールを開発するテクノロジー企業だ。質疑応答による学生とのコミュニケーションも図られた。World IDの構想や社会に与えるインパクト、近い将来におけるWorld IDのポジションなどの話を伺った。

●個人情報を持たずに人間であることを保証するWorld IDの哲学
牧野氏はインターネットが発展、成長する現場の第一線で活躍してきた人物だ。AOL Japanではポータルサイトを中心としたビジネス開発、GoogleではYouTubeの日本展開、Twitter Japanの事業戦略、トリップアドバイザーの代表取締役、Activision Blizzard Japanの代表などを歴任してきた。これは牧野氏が、インターネットに繋がる、情報を蓄積し、すべてが検索できる基盤を作ったWeb1.0、ユーザーが情報をアップし、検索とフィードバックによるビジネスモデルを作ったWeb2.0、そしてブロックチェーン技術を活かし、中央集権型から分散型ネットワークへ移行したWeb3という、インターネットの発展を間近なところで関わってきたことを示している。
そしていま、AIの時代が始まり、これまで作られてきたインターネットのモデルが崩れようとしている。検索時にその情報が掲載されたサイトにアクセスを返すことで成り立っていた広告などのビジネスモデルは、AIの登場によって、そのサイトへアクセスする必要がなくなり、そのサイトを作るコストが賄えなくなる。このインターネットの大転換期に牧野氏が注目し、携わっているのが「World ID」だ。
World IDは、サム・アルトマンとアレックス・ブラニアが共同設立したTools for Humanityによって開発された。World IDを用いることで、ユーザーは名前やメールアドレスなどの個人情報を共有することなく、自分が現実世界に存在する唯一無二の人間であることを証明できる。現実世界では本人確認の書類としてパスポートや運転免許証が用いられるが、そこには「自分である」こと証明することには必ずしも必要がない生年月日や住所などの情報も記載されている。World IDが面白いのは、人間であることを証明するテクノロジーが、こうした個人情報を扱わないことがむしろ強力な安全性を生むという、従来にないアプローチをとっている点である。
World IDには、その人が唯一無二の実在する人間であることを確認する「Orb」というデバイスを使用し、World IDを作成できる。Orbは、顔と目の写真を撮影し、撮影された画像は暗号化され、Orbやどこかのサーバーではなく、本人のスマートフォンに保存される。写真から生成された永続的な暗号コードは断片化され、二重登録を防ぐために複数のセキュアなデータベースに分散保存される。これらすべてが、わずか数秒で簡単に完了する。


IDとパスワードを用いた従来の認証方式は、一人が複数のアカウントを作成することが可能で、ボットが大量作成される余地が大きかった。さらに、アカウントを作成する際には、特定の個人であることを示すために、メールアドレスや住所氏名などの個人情報を入力する必要があり、個人情報が漏洩するといったリスクも抱えていた。World IDは「資格を持った唯一無二の個人ではあるが、誰かまではわからない」という逆のアプローチを取る。証明するのは実在する人間であり、かつほかと重複のないひとりであるという一意性だけだ。
牧野氏は「World IDは個人を特定する情報は何ひとつ持っていない。だからこそトラッキングも不可能で、World IDを使用する際に企業側も個人情報を保持しない」と説明。「World IDは個人情報を受け取らないし、渡さない。サービス側も18歳以上か、一人一票かといった必要な情報だけを確認できればよく、それ以上の不要な個人情報を抱え込む義務やリスクから自由になれるのは大きい」とした。
これは導入する企業側にもメリットがある。個人情報を抱える義務がなくなるため、コンプライアンス負担が大幅に下がり、リスクも減る。企業やアプリが「個人情報を持たない」という技術構造が、社会全体のセキュリティを底上げする。
World IDは最近マッチングアプリ「Tinder」で年齢認証のためにテスト運用されている。また、民主化が進んでいない国家で投票をする際、誰かが投票しているが誰が投票したことがわからない(かつ一人が何票も投じていない)という匿名性を担保するといった応用にも役立ちそうだ。
●プラットフォームは社会が使い方を発明する場所
Tools for HumanityはWorld IDの使い方を規定していない。牧野氏も講演の中で「使い方を僕らが決める必要はない」と強調していたが、この発言の背景には「用途は社会が発明する」という、プラットフォームのあり方に対する牧野氏自身の経験と明確なフィロソフィーがあるようだ。
「TwitterもInstagramも、当初は今の使われ方を想定していませんでした。結局、ユーザーが勝手に新しい文脈を作り、文化が育っていった。World IDも同じです。僕らはIDという基盤を提供するだけで、どのようなアプリケーションが生まれるかは社会が決めるものだと思っています」(牧野氏)
上述したマッチングアプリの年齢確認のほか、コミュニティの会員証、SNSでのスパム対策、チケット転売の防止など応用の可能性はいくつか挙げられた。
World IDが持つ「匿名でありながら唯一無二の人間であることを証明する」という目的は、多くの社会的課題の前提を覆す可能性を秘めている。World IDにはSDKやウェブキットがあり、アプリなどにもは簡単に組み込める設定になっているという。「数が増えれば増えるほど、社会インフラに近づく。そこが重要だと思っています」と牧野氏は語る。World IDを社会の共通基盤へと成長させる考え方を貫いている。
「我々が全ての未来像を描く必要はなくて、むしろ、僕らの想像の範囲に収まるのは失敗なんです。World IDという基盤を開き、社会側が自由に応用できる状態にすること。それがプラットフォームとして最も重要だと考えています」(牧野氏)


牧野氏は、World IDの意義を「未来を決めるのではなく、未来を生み出す基盤」だと語る。匿名で、一意で、個人情報を持たず、世界中で共通に使えるWorld IDの登場は、インターネットが抱えてきた構造的な問題を根本から覆す力を持ち、これまで経験したことのない世界を生み出す可能性がある。
●「一人一つ」がもたらす巨大な社会インパクト
現在Facebookが30億人というアカウントを持っているが、World IDはそれに匹敵する、あるいはそれを超える規模となっていくだろう。そのときWorldプロジェクトが社会にもたらすインパクトは想像もできないパワーを秘めている。

匿名性を保ちながら一意の個人であることを証明するWorld IDが何十億人という単位で当たり前に使われる時代となったとき、このプラットフォームはどのような世界を作り出すのか。まだ見たことのないサービス、インターネットの概念を覆す新たな情報インフラ、世界中の人々がWorld IDを用いて活動する未来。我々の未来はその新しい扉を開ける入り口に立っている。